文化財調査(伊東マンショの幼名を記した天井画)

 当寺に残る「伊東祐青奉納墨書天井画」の調査が行われました。表面には「上り龍と下り龍」が生き生きと描かれています。また、裏面には伊東マンショの幼名などが書かれた墨書があります。しかし、1500年代に描かれたもので、年々肉眼で判別するのが厳しい状況に陥っております。

 左の写真は、以前、同様に行われた調査際、撮影された赤外線写真です。これと比べると、劣化の跡が感じられ、今後の保存が心配されます。

 ○写真(左)・・・以前撮影された赤外線写真

 ○写真(下左)・・今回の調査の様子

 ○写真(下中)・・今回の墨書部分

 ○写真(下右)・・今回の龍の一部(鱗の一つ一つが見えます)

 当寺には「伊東祐青奉納墨書天井画」をはじめ、貴重な文化財等が残っております。戦国時代の伊東と島津の争い、明治の廃仏毀釈、昭和の戦中戦後の混沌とした時代をはじめ、幾多の困難を経て今に伝わったものです。ただ単に骨董品、美術品といった見方ではなく、当時の人々の願いや気持ち、命がけで守った方々の意志、そして、何よりもこれらに含まれる仏様の教えを感じながらみると、私たちの心により強くその価値が刻まれることだと思います。

 

仏 縁(猫でさえ・・)

猫がお経を聞く様子
お経を毎日聞く猫

    数年前、境内に迷い猫が入り込んできました。近寄ると「フー」と荒立ち近寄り難い様子でした。ただ、住職が朝、夕の読経を始めると、どこからともなく後ろにきて、前足をそろえ、そのお経を毎日聞いておりました。(へたな人間様より仏縁があるやもしれんなあ。)と思い、猫に向かって「何の因果か畜生道に生まれたお前も、今度生まれ変わるときは、人間か、それ以上に生まれることだろう。」と声を掛けることもしばしば。やがて、与えたえさも口にするようになり、今では不自由ない生活を送っております。

 仏教の六道輪廻と回向の教えから察するに、前世の報いで畜生道に落ちた彼も、前世での子孫が心から供養した功徳により、仏縁が開けた・・・のかもしれません。

感謝の心

感謝の心に関連した写真
感謝の心

  畜生道に生まれたなら、食べることに困ったり、他の動物に命を狙われたりと、それは過酷な一生を送る定めの猫。そんな中、仏の恵みでしょう、不自由ない生活を送っていることへの感謝。おそらく感謝する知恵もなくただ当たり前のように過ごしているに違いありません。猫ですから。
 それでは、一歩引いて、人間に置き換えてみましょう。私たちも畜生よりはましですが、苦しみの多い人生です。「一寸先は闇」と申す如く、今日一日無事で明日を迎える保証は何もない。目の前が真っ白になるような瞬間が一生のうちには少なかれ起こるやもしれません。

 「今日も一日無事に感謝。」大難は小難、小難は無難・・・

皆苦

 先日、住職が拝殿にいますと、ある参拝者の方が声をかけてくださいました。「実はわたくし、仕事に失敗し、大変悩んでおりました。そんな折、境内の立札を読み、救われました。またがんばろうと思います。」法華嶽薬師寺の境内および日本庭園には、仏の教えを易しく読み解いた立札が、何か所か立ててあるのですが、その一つを読まれたのでしょう。


~人の一生は「苦」が多き、その中に訪れるしばしの楽しみ。つらいこと、苦しいことがいろいろな形でやってきます。背筋を伸ばし、目を閉じ、何も考えず心静かに無の境地に入りましょう。しばらくして目を開けると、今までのつらい出来事は「過去」のものです。今この瞬間、これから何をしなければいけないのかを考えるのです。そして、諸行無常の今世を生きぬくのです。~

釈迦岳

 現在の法華嶽薬師寺の西にそびえる山は、昔から釈迦岳と呼ばれ、お釈迦さまの山。霊山としてあがめられています。まさに修行のお山と言っても過言でないと思っております。この釈迦岳は九州百選にも選ばれ、薬師寺から1里ばかりの標高830mの山頂に、日々多くの方々が訪れます。しかし、夜ともなると鹿や猪などの獣も少なくなく九州山地の一角をなすにふさわしい風合いをかもし出しております。

 そんなお山に、私も幼いころから、修行と称して夜中に一人で登っていたことを思い出します。これは、尼僧であった先代もまた、修行と称して夜中に百日の願をかけ、登ったようであります。何の修行かと申しますと、心の修行、仏と我との縁を深めること、そして、衆生の救済を願うが故の行であります。山中はそれはそれはさみしく、何とも心細い・・・夜中となれば、ガサッと草木が揺れるたびに、目がぎょっと見開き、命はないかもと思うぞっとする山中です。しかし、(必ず仏が守ってくださる)という確固たる気持ちと、これをやり遂げなければ今後はない覚悟で、やり遂げることができたように思います。何事にも言えることで、退路を断つというか後戻りをせぬ「覚悟」がなければ、何事も成さぬは世の常。この世の中、困難や恐怖のないことはなく、それを乗り切るには、目に見えないものを信じられるか、覚悟があるかにかかっているように思います。・・・そんなことを思いつつ、釈迦岳を見上げる今日この頃です。

伊東マンショの慰霊祭

 11月7日(土)、西都市都於郡城跡で、伊東マンショの慰霊祭が開催されるということで、お招きをいただきました。と言いますのも、当法華嶽薬師寺は長い歴史の中で、伊東家との関わりも大変深いものがあったからです。マンショの父・祐青(すけはる)が薬師寺のお堂建立の際、天井板(左の写真)を奉納し、後に、裏面に記載されたマンショの幼名が世界に一つの物証として注目を浴び、現在も多くの方々がマンショの足跡を訪ねて薬師寺においでになることも一例に挙げられます。

 さて、慰霊祭の途中、慰霊のために作ったという歌が披露され、歌手カノンさんの美しい歌声と曲をバックに、ふと、マンショの銅像にかかる雨に目を移すと、私は「この雨はきっと、母・上の町殿のうれし涙の雨に違いない・・・」と思われてなりませんでした。大切な我が子、マンショの無事を誰よりも願った母君の愛情は、時を経てもなお、今も続いているに相違ありません。

 マンショの偉業は数多くありますが、キリスト教弾圧の時代、その多くは歴史の闇へ葬り去られてしまいます。ただ、私が考えるマンショの最大の偉業は、その生き方にあるように思われれます。ヨーロッパから帰国後、豊臣秀吉から2度にわたり取り立ててやろうと誘われたにもかかわらず、それを断り、信仰の道、人々を救う道を生涯全うされた・・・という生き方です。後に、伊東家は再興を許され、日南市飫肥を与えられました。本来ならマンショがその当主に君臨してもよいはずでしたが、そんなことには目もくれずひたすら自分の信じる道を歩まれたマンショ。かつては伊東家当主の孫として生まれ、何不自由ない生活を送り、そこから落人と一変。キリシタン大名の代理として命がけでヨーロッパへ。諸行無常の悟りを得たであろうマンショに、またお殿様としての生活が与えられたとしても、それははかないこの世の夢ごとだと感じたに違いありません。

 ただひたすら、他のために生きる!そこに天国への扉があるに相違ないと私も思うのであります。マンショの生き方・・・これこそが現代人が学ぶべき偉業ではないでしょうか。