法華嶽薬師寺1300年の歴史

最澄(伝教大師)開山の由来
最澄(伝教大師)の遺跡

 西暦718年(養老2年)8月8日、ときの 高僧が釈迦岳の山頂に釈迦如来の石像を安置し、「金峯山・長喜院」とし、法華嶽薬師寺の歴史が始まりました。古くから、日本三大薬師と言われる越後の 米山薬師、三河の宝来寺薬師、そして、日向の法華嶽薬師は、全国から病気平癒の御利益で名高いお寺でした。平安時代になって、最澄(伝教大師)が、唐(中国)から帰られた後、九州を巡錫された際、この地に留まり、自ら薬師如来を彫刻安置し、「真金山・法華嶽寺」と改められ、現在にいたっています。最澄(伝教大師)はご承知のとおり、天台宗開祖であり、空海(弘法大師)とともに、日本の仏教に多大な功績を残したお方です。本寺もまた天台宗のお寺であります。

  
   

江戸時代の法華嶽薬師寺の様子
昔の法華嶽薬師寺の様子

 

昔の法華嶽薬師寺はどんなお寺?

 

 

   古くは伊東家の祈願寺として、その後、島津家の祈願寺として、常に50人の僧侶がいる大寺院として栄えていました。
 しかし、明治の廃仏毀釈により、寺は焼かれ、廃寺同然の時期もありました。
 昭和45年、現在の拝殿が改築されました。また、平成に入り、境内に日本庭園がつくられるなど、少しずつ復興してきている今日この頃です。

 左の絵は江戸時代の法華嶽薬師寺の様子です。

(三国名勝図会)

大正時代の法華嶽薬師寺大祭の様子
法華嶽薬師寺大祭

薬師寺ってどんなお寺?
      薬師如来ってどんな仏様?

 

 

 薬師寺というのは、病気平癒(病気をいやす)を祈願するお寺で、当然御本尊は病気平癒の仏様である薬師如来様です。
 左の写真は、大正時代の参道および参拝者の様子です。

和泉式部が病気平癒のお礼に奉納したと伝わる琵琶
和泉式部奉納琵琶

和泉式部の由来?

 

 

 和泉式部は、平安時代の歌人で、次のような百人一首の歌も有名です。

 

『あらざらむこの世のほかの思い出に
       今ひとたびの逢うこともがな』

 

 この式部が病気になり、「日向の法華嶽薬師に参拝すれば治る。」というお告げを受け、参拝に来られました。そして、何日も何日もお願いしました。願いかなっていざ、京の都へ帰る途中、愛染川で川を渡れずに困っている年寄りを見付けました。自分を背負って川を渡してほしいという願いを、「汚い身なりのあなたを背負うつもりはない。」と言い放って一人で川を渡った式部は、ふっと見ると、もとの病気になっていました。振り返ると年寄りの姿がなく、薬師如来の化身であったことを悟ります。そして、薬師寺に引き返す途中、現在の「身投げ丘」で、病気が治らないことを悲しんで、身投げしようとしました。そこに、薬師如来様から、「そなたの病は心の病である。優しく清い心を持てばきっとよくなる。」というお告げがあったのです。そして、更に一心に祈願した式部は、無事、病気が治り京に帰ったということです。

 左の図は、病気平癒のお礼として、式部が命の次に大事にしていたと言われる琵琶を、法華嶽薬師寺に奉納されたものです。(三国名勝図会) 

 

世界に唯一、伊東マンショの幼名を記した天井板 指定文化財
伊東マンショの幼名を記した天井板

 

伊東マンショの幼名を記す唯一の物証である天井板とは?

 

 

 日向の国を治めていた伊東家の祈願寺であった法華嶽薬師寺に、天正3年

(1575年)、マンショの父の伊東修理亮祐青が子どもたちの名を記した天井板を奉納しました。

 これは、伊東マンショの幼名を知る唯一の遺物として、現在も法華嶽薬師寺にあります。二枚合わせて縦・横それぞれ2.8メートル、全面に金箔、龍が描かれています。
 これにより、伊東マンショの幼名は「虎千代麿」であることが判明しました。

西郷隆盛、月照和尚、法華嶽薬師寺お預け決定の儀って?



 明治の偉人、西郷隆盛は、月照和尚と錦江湾に身を投げます。、隆盛は助かりますが、月照和尚は帰らぬ人に…。このとき、二人は、法華嶽薬師寺へお預けの令により当寺へ送られる途中の出来事だったのです。伊東と島津の争いの後、薩摩藩の祈願寺となっていた法華嶽薬師寺は薩摩藩の政治犯が送られ預けられることもあったのです。
 薩摩藩から薬師寺に送られるとき、東送りと西送りがあり、暗黙の掟として、東送りの際は、「長送り」と言って、国境(この場合、高岡の去川の関所)で命を絶つ慣わしとなっていたらしいのです。西郷隆盛と月照和尚は東送りであったことを悲観して、身を投げたのです。しかし、後の歴史学者の方々には、薩摩藩は命を絶つ意図はなかったのを、悲観して身を投げた…と言う意見も少なくありません。